[1]-[2]-[3]-[4]-[5]-[6]-[最終回]
「私がロンドンの郊外でW&F商会の看板を上げたのは二十年のことでした。最初は小さな雑貨屋でしたが、幸いにも顧客と機会に恵まれ、3年前にピカデリーに5階建ての店舗を構えることができました。
私は現場主義ですので、執務室で過ごすよりも、十数名の店員に混じって、売り場で過ごすほうが落ち着きます。売り場に出ていれば、お客様が今、何を求めているのかを肌で感じることが出来ますし、店に対する注文やお叱りを、私の権限ですぐに改善することで、ご贔屓様を広げて来たという自負もございます。店員の中には、私が売り場に出ることを煙たがる者も居ますが、私も店員も文具好きという共通点がありますので、心底嫌われているというわけではなさそうです。

先週の月曜日、閉店間際のことです。私が1階のカレンダー売り場で在庫を調べておりますと、若い男性が入ってこられ、来年のカレンダーを指差してご質問をされたのです。
『すみません。このカレンダーの今年のものはありますか?』
「私がロンドンの郊外でW&F商会の看板を上げたのは二十年のことでした。最初は小さな雑貨屋でしたが、幸いにも顧客と機会に恵まれ、3年前にピカデリーに5階建ての店舗を構えることができました。
私は現場主義ですので、執務室で過ごすよりも、十数名の店員に混じって、売り場で過ごすほうが落ち着きます。売り場に出ていれば、お客様が今、何を求めているのかを肌で感じることが出来ますし、店に対する注文やお叱りを、私の権限ですぐに改善することで、ご贔屓様を広げて来たという自負もございます。店員の中には、私が売り場に出ることを煙たがる者も居ますが、私も店員も文具好きという共通点がありますので、心底嫌われているというわけではなさそうです。

先週の月曜日、閉店間際のことです。私が1階のカレンダー売り場で在庫を調べておりますと、若い男性が入ってこられ、来年のカレンダーを指差してご質問をされたのです。
『すみません。このカレンダーの今年のものはありますか?』
今年はもうあと3月もありませんので、意外に思われるでしょうが、一年のどの月であっても、今年のカレンダーをお求めになるお客様がおられます。当初は私も不思議に思い、何人かのお客様にお買い上げの理由をお尋ねした事がありますが、お客様からは「人から頼まれた」などという、あいまいなお答えしかいただきませんでしたので、深く詮索するのもはばかられ、「文具界の七不思議」の一つのままとなっています。また、そういったお客様がおられることがわかっておりますので、オリジナルのカレンダーは、毎年多めに作るようにしております。
話を戻しますと、そのカレンダーは在庫がありましたので、お客様にお分けすることが出来ました。」
黙って聞いていたホームズが、口を挟んだ。
「その男性は他に何か買っていきましたか?」
「ええ、机上に置くための小さなカレンダーです。これもまた今年のものでした。他には色違いのインクの小瓶を二つほど。丁度店の1階はインク売り場とカレンダーの特設売り場になっておりますので、それらの品だけをお買い上げいただいたのは間違いございません。」
「カレンダーは、W&F商会のオリジナルですか?」
「そうです、大小のカレンダー、インクとも当店のオリジナルです。大きなほうのカレンダーは、こちらと全く同じものです。」
スイフト氏は振り返って、壁のカレンダーを指した。
薄い象牙色のカレンダーは、新聞一面ほどの大きさで、大きな手書き風の日付が、青みがかった薄灰色で印刷されていた。ひと月一枚、合計12枚のカレンダーの束は、らせん状の針金を使って上端でまとめられている。そのため、壁からカレンダーをはずして台紙を捲り上げて後ろにまわすと、破り捨てずに記録として残すことが出来るという寸法だ。新しい月をおもてに出す事が、月初めの私の儀式であり、いろいろ書き込んだカレンダーを取り外して丸め、「いつもの」トランクに収納するのが、年明けの儀式であった。
「なるほど。続けてください。」
「はい。その日は不思議に思うこともなかったのですが、翌日の同じような時刻に、またその男性が現れ、今度は『今年のオリジナルスケジュール手帳』と、追加でもう一巻、今年のカレンダーをお求めになりました。今度も私が応対し、カレンダーは在庫から無事お分けすることができましたが、手帳は在庫が無いとお伝えすると、男性はかなり落胆されたご様子でした。
男性はご存じないようでしたが、手帳は予約制でして、毎年決まった数量をご贔屓にしてくださるお客様に販売しております。また、お客様毎に、裏張りの色や表紙を別注にしておりますので、在庫は一切無いのです。
そんなわけで、結局火曜日は今年のカレンダーを一つお買い上げになっただけでした。
次の日の同じような時刻に、また男性が来店されました。その日は女性の店員が、男性からのご注文を承ったのですが、やはり今年のカレンダーの件でしたので、店員は男性を連れて私に在庫を確認しに来ました。男性は何度も今年のカレンダーを求めに来るのが気まずいのか、少し恥ずかしそうな様子でした。
男性はこの日、3巻のカレンダーをお求めになりました。」
「ふーむ。今年のカレンダーばかりとは。よっぽど熱心な愛好家なんだねぇ。」
私がそう言うと、ホームズは合わせた手の端から、ちらりと私を一瞥した。
「一日あいた金曜日、また同じ時刻に男性が現れたのですが、この時は何やらあわてたご様子でした。いつもはこざっぱりした格好をされているのに、その日に限っては、ひげもそっておらず、シャツには大きなインクの染みと、猫かなにかの足跡がついていました。 そんな格好で、男性はやはり今年のカレンダーをお求めになったのです。」
「ひょっとして大きいものが5巻?」
ホームズはニヤニヤしながら問いかけた。
「いいえ、残念ながら大きなものが7巻と卓上型ものが1つです。」
ホームズはなお一層ニヤニヤ笑いを広げながら「ほお」と唸った。
「少し心配になったものですから、『どうかされましたか?何か手前どものカレンダーに不具合でもございましたか?』とお尋ねしたところ、『何も無い』とのお答えで一安心しました。また、その際に、『カレンダーの在庫はこれが最後ですから』と、お伝えしましたところ、男性は驚いた様子で、繰り返し何度も在庫の確認をされました。
実際、もう在庫はありませんでしたので、何度聞かれても『ございません』とお答えするしかないわけでして…。ご納得いただいたのか、男性はがっくりと肩を落としながら帰って行かれました。
私は、その様子が気になり、次にもし男性が現れたら、どの階の売り場からでもこっそり私を呼びに来るようにと、店のもの全員に申し伝えておきました。
そして昨日のことです。」
「現れたんですか?」
私が問いかけると、スイフト氏は眉間に深い皺を刻んで、強くうなずいた。
「ええ。若い女性店員が、血相を変えて呼びに来ました。ただ事ではない様子でしたから、あわてて売り場に出てみると、売り場の男性店員が、床の上に大の字になってのびていました。女性店員に話を聞くと、なんとあの男性が店員を殴り倒し、売り場の背後に見本としてかけていた今年のカレンダーを奪って逃げたと言うのです。」
「ほお!そのカレンダーには何か書き込みがされていましたか?」
「いいえ。過ぎた月の台紙ををちぎりとっただけで、あとの3ヶ月は何も書き込みしていません。」
ホームズはとても楽しそうに唸った。
スイフト氏は目を閉じて眉間のあたりを揉みながら、話を続けた。
「店員の怪我はたいしたことはありませんでしたし、盗まれた物といえば、あと3ページしか残っていない今年のカレンダーだけでした。これでは警察に届けても、まともに取り合ってもらえないでしょう。たまたま他にお客様がいませんでしたので、殴られたかわいそうな店員には、治療費として少々包んでやりました。」
「ノックアウトされたのに、たいした怪我ではなくてよかったですね。」
そう言うと、スイフト氏は微笑んだ。
「ええ、よっぽど当たり所が良かったのでしょう。店員はかなり大柄で、男性はひょろひょろで小柄でしたから。逆に店員は、『賊を取り押さえられなかったのに、お金を貰って申し訳ない』と言って、渡したその場で来年のカレンダーの購入に使ってしまいました。」
スイフト氏と微笑を交わしながら、ホームズを見ると、彼は目を閉じて深く考え込んでいる様子だった。彼は目を閉じたままこう言った。
「スイフトさん。今からお店の帳簿を元に調べていただきたいことがあります。一緒にお店に戻ってもらえませんか?。ワトソン君はここで待っていてくれたまえ、ひょっとしたらすぐに出発しなければならないかもしれない。そうなったら伝言を寄越すから、急いで来てくれたまえ。」
夜更け、ハドソン夫人から頼まれた調べ物をしていると、ホームズからの伝言が届いた。使いの少年に半ギニーほど渡し、便箋をあらためると、そこには「明日のアルミニ行き始発。旅費と簡単な着替えを。S.H.」とだけ書かれてあった。便箋と思った紙にはスコットランドヤードの透かしが入っていた。ホームズはW&F商会を辞した後、スコットランドヤードに立ち寄った様子である。どうやら彼は、この件が、単なる「奇人の暴行事件」以上の意味を持つと考えたらしかった。
(つづく)
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話を戻しますと、そのカレンダーは在庫がありましたので、お客様にお分けすることが出来ました。」
黙って聞いていたホームズが、口を挟んだ。
「その男性は他に何か買っていきましたか?」
「ええ、机上に置くための小さなカレンダーです。これもまた今年のものでした。他には色違いのインクの小瓶を二つほど。丁度店の1階はインク売り場とカレンダーの特設売り場になっておりますので、それらの品だけをお買い上げいただいたのは間違いございません。」
「カレンダーは、W&F商会のオリジナルですか?」
「そうです、大小のカレンダー、インクとも当店のオリジナルです。大きなほうのカレンダーは、こちらと全く同じものです。」
スイフト氏は振り返って、壁のカレンダーを指した。
薄い象牙色のカレンダーは、新聞一面ほどの大きさで、大きな手書き風の日付が、青みがかった薄灰色で印刷されていた。ひと月一枚、合計12枚のカレンダーの束は、らせん状の針金を使って上端でまとめられている。そのため、壁からカレンダーをはずして台紙を捲り上げて後ろにまわすと、破り捨てずに記録として残すことが出来るという寸法だ。新しい月をおもてに出す事が、月初めの私の儀式であり、いろいろ書き込んだカレンダーを取り外して丸め、「いつもの」トランクに収納するのが、年明けの儀式であった。
「なるほど。続けてください。」
「はい。その日は不思議に思うこともなかったのですが、翌日の同じような時刻に、またその男性が現れ、今度は『今年のオリジナルスケジュール手帳』と、追加でもう一巻、今年のカレンダーをお求めになりました。今度も私が応対し、カレンダーは在庫から無事お分けすることができましたが、手帳は在庫が無いとお伝えすると、男性はかなり落胆されたご様子でした。
男性はご存じないようでしたが、手帳は予約制でして、毎年決まった数量をご贔屓にしてくださるお客様に販売しております。また、お客様毎に、裏張りの色や表紙を別注にしておりますので、在庫は一切無いのです。
そんなわけで、結局火曜日は今年のカレンダーを一つお買い上げになっただけでした。
次の日の同じような時刻に、また男性が来店されました。その日は女性の店員が、男性からのご注文を承ったのですが、やはり今年のカレンダーの件でしたので、店員は男性を連れて私に在庫を確認しに来ました。男性は何度も今年のカレンダーを求めに来るのが気まずいのか、少し恥ずかしそうな様子でした。
男性はこの日、3巻のカレンダーをお求めになりました。」
「ふーむ。今年のカレンダーばかりとは。よっぽど熱心な愛好家なんだねぇ。」
私がそう言うと、ホームズは合わせた手の端から、ちらりと私を一瞥した。
「一日あいた金曜日、また同じ時刻に男性が現れたのですが、この時は何やらあわてたご様子でした。いつもはこざっぱりした格好をされているのに、その日に限っては、ひげもそっておらず、シャツには大きなインクの染みと、猫かなにかの足跡がついていました。 そんな格好で、男性はやはり今年のカレンダーをお求めになったのです。」
「ひょっとして大きいものが5巻?」
ホームズはニヤニヤしながら問いかけた。
「いいえ、残念ながら大きなものが7巻と卓上型ものが1つです。」
ホームズはなお一層ニヤニヤ笑いを広げながら「ほお」と唸った。
「少し心配になったものですから、『どうかされましたか?何か手前どものカレンダーに不具合でもございましたか?』とお尋ねしたところ、『何も無い』とのお答えで一安心しました。また、その際に、『カレンダーの在庫はこれが最後ですから』と、お伝えしましたところ、男性は驚いた様子で、繰り返し何度も在庫の確認をされました。
実際、もう在庫はありませんでしたので、何度聞かれても『ございません』とお答えするしかないわけでして…。ご納得いただいたのか、男性はがっくりと肩を落としながら帰って行かれました。
私は、その様子が気になり、次にもし男性が現れたら、どの階の売り場からでもこっそり私を呼びに来るようにと、店のもの全員に申し伝えておきました。
そして昨日のことです。」
「現れたんですか?」
私が問いかけると、スイフト氏は眉間に深い皺を刻んで、強くうなずいた。
「ええ。若い女性店員が、血相を変えて呼びに来ました。ただ事ではない様子でしたから、あわてて売り場に出てみると、売り場の男性店員が、床の上に大の字になってのびていました。女性店員に話を聞くと、なんとあの男性が店員を殴り倒し、売り場の背後に見本としてかけていた今年のカレンダーを奪って逃げたと言うのです。」
「ほお!そのカレンダーには何か書き込みがされていましたか?」
「いいえ。過ぎた月の台紙ををちぎりとっただけで、あとの3ヶ月は何も書き込みしていません。」
ホームズはとても楽しそうに唸った。
スイフト氏は目を閉じて眉間のあたりを揉みながら、話を続けた。
「店員の怪我はたいしたことはありませんでしたし、盗まれた物といえば、あと3ページしか残っていない今年のカレンダーだけでした。これでは警察に届けても、まともに取り合ってもらえないでしょう。たまたま他にお客様がいませんでしたので、殴られたかわいそうな店員には、治療費として少々包んでやりました。」
「ノックアウトされたのに、たいした怪我ではなくてよかったですね。」
そう言うと、スイフト氏は微笑んだ。
「ええ、よっぽど当たり所が良かったのでしょう。店員はかなり大柄で、男性はひょろひょろで小柄でしたから。逆に店員は、『賊を取り押さえられなかったのに、お金を貰って申し訳ない』と言って、渡したその場で来年のカレンダーの購入に使ってしまいました。」
スイフト氏と微笑を交わしながら、ホームズを見ると、彼は目を閉じて深く考え込んでいる様子だった。彼は目を閉じたままこう言った。
「スイフトさん。今からお店の帳簿を元に調べていただきたいことがあります。一緒にお店に戻ってもらえませんか?。ワトソン君はここで待っていてくれたまえ、ひょっとしたらすぐに出発しなければならないかもしれない。そうなったら伝言を寄越すから、急いで来てくれたまえ。」
夜更け、ハドソン夫人から頼まれた調べ物をしていると、ホームズからの伝言が届いた。使いの少年に半ギニーほど渡し、便箋をあらためると、そこには「明日のアルミニ行き始発。旅費と簡単な着替えを。S.H.」とだけ書かれてあった。便箋と思った紙にはスコットランドヤードの透かしが入っていた。ホームズはW&F商会を辞した後、スコットランドヤードに立ち寄った様子である。どうやら彼は、この件が、単なる「奇人の暴行事件」以上の意味を持つと考えたらしかった。
(つづく)
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