[1]-[2]-[3]-[4]-[5]-[6]-[最終回]
ホームズと私は、教授に案内されて1階に降り、玄関脇の部屋に入った。
そこには大人の背丈ぐらいの大きなもの、人の頭ぐらいのもの、細長いものなど、様々な木箱が天井まで積みあげられていた。私は途方にくれた。この木箱を開梱し、中身をあらため、また元に戻すのは、相当に面倒な作業に違いない。このコレクションを紐解き、ホームズは何を探り出そうと言うのだろう。

教授は「少しお待ちください」と言って、部屋を出て行った。ホームズはといえば、木箱に近づいたが、封を開けるでもなく、後ろに手を組んだままで木箱を眺めていた。
ホームズに声をかけようとしたそのとき、隣の部屋に続くドアが開き、教授が顔を見せた。
「ホームズさん。ワトソンさん。こちらにどうぞ。」
ホームズと私は、教授に案内されて1階に降り、玄関脇の部屋に入った。
そこには大人の背丈ぐらいの大きなもの、人の頭ぐらいのもの、細長いものなど、様々な木箱が天井まで積みあげられていた。私は途方にくれた。この木箱を開梱し、中身をあらため、また元に戻すのは、相当に面倒な作業に違いない。このコレクションを紐解き、ホームズは何を探り出そうと言うのだろう。

教授は「少しお待ちください」と言って、部屋を出て行った。ホームズはといえば、木箱に近づいたが、封を開けるでもなく、後ろに手を組んだままで木箱を眺めていた。
ホームズに声をかけようとしたそのとき、隣の部屋に続くドアが開き、教授が顔を見せた。
「ホームズさん。ワトソンさん。こちらにどうぞ。」
目に飛び込んできたのは、国立図書館さながらの壁一面の背表紙だった。
中央のテーブルを取り囲むように配置された本棚は、緩やかな傾斜を描きながら吹き抜けの天井に達していた。その天井の大きなステンドグラスを通して降り注ぐ光に、大小色とりどりの装丁と、背表紙の金文字がきらめくさまは、噂に聞く大瀑布さながらの景観だった。
教授は我々をその一角に呼び寄せた。そこは他とは違って、比較的小型の本と、紙製の筒がぎっしりと詰め込まれていた。近寄ってみると、小型の本と見えたのは、さまざまな背表紙の手帳類であり、紙筒には丸められたカレンダーが納められているようだった。
教授は艶然と微笑みながら、腰の高さの一段を示した。
「このあたりが、W&F商会のオリジナル商品です。創業当時のものから全て揃っていますよ。」
ホームズは礼を言うと、比較的新しそうな一角から手をつけた。私も真似て一冊抜き出すと、ぱらぱらと手帳を捲った。私は驚いた。手帳にはびっしりと、スケジュールや日誌のようなメモが書き込まれていたのだ。
「全ての手帳をお使いなんですか?」
教授はからからと笑った。
「W&F商会の手帳だけですよ。使っているのは。もちろん、未開封のものは別にとり置いていますけれどね。そちらがよければ…」
「いえいえ上等ですよ。むしろお使いのほうがいい。」
ホームズが割り込んだ。
「この手の手帳を私たちは使ったことがありませんから、どんな使い方をするのかに興味があります。…もちろん今年の手帳は未だ『殿堂』入りしていませんね。」
ホームズのこの一言で、教授は悲しそうに微笑んだ。
「残念ですが、あの子が『殿堂』入りすることは無いかもしれません。」
「どうしたのですか?」
教授はため息をついた。
「無くしてしまったのです。普段は家の中でも片時もはなさず持ち歩くのですが、考古学展への出展と学会の準備、屋根の修理、そのほかの雑事がここ最近重なってしまって、どこに置いたのか、ちっとも思い出せないのです。」
ホームズは、開いていた一昨年の手帳を閉じながら、同情を示した。
「それはお困りでしょうね。これらの手帳には、それは細かくさまざまな予定やメモが記されていますし、これを失うなんて…」
「ありがとうございます。ホームズさん。幸いにも予定は大丈夫ですの。家のそこここにカレンダーを貼っていますから、来客や大きな予定はそれらにも均等に記しています。それに、万が一の事を考えて、全ての予定は卓上のカレンダーにも書き込んであるのです。」
手帳は少々の変化はあるものの、毎年ほぼ同じ「1週間が縦型」のもので、教授はそこに、小さな文字でびっしりと予定やメモを記していた。教授にとっては、手帳は単なる予定を記す帳面ではなく、日記帳の役割も兼ねている様子だった。使い込まれた様子のカバーは、黒い馬革、ダチョウの皮、東洋の布地など、毎年異なった上品な素材で出来ており、表紙の肩には小さく家紋があしらわれていた。
私はふと教授に聞いてみたくなった。
「教授はカレンダーにどうしても思い出せない印が付いていたご経験はありませんか?」
教授はにっこりと笑った。
「ありますよ。もちろん。そんなときは手帳か、卓上のカレンダーに聞いてみます。ちゃんと何の予定か書いてありますから、約束を取り違えたりすることはありません。」
手帳を棚に戻し、なにやら考えていたホームズが話に割り込んできた。
「今お使いの小さなカレンダーを見せてもらえますか?」
「ええ、いいですとも。先ほどの部屋に大小のカレンダーがありますから、戻りましょう。」
我々は2階の部屋に戻り、招かれるままに教授の机に近寄った。広い机の両脇には、きちんと書類が積まれており、カレンダーは、右手奥の机の縁に、ガラスを抜いた黒い小さな額縁に入れて立てかけられていた。このカレンダーにも、手帳ほどでは無いにせよ、毎日の来客や簡単なメモなどが、結構な密度で記されていた。
「ほう。ふた月分を並べて置いてあるんですね。」
今月のカレンダーを手に取りながら、ホームズが尋ねた。
「ええ、こうすると、論文の締め切りまであと何日あるのか解りやすいのです。それに、翌月の予定を書き込むときに、いちいち抜き差ししないで済みますし。」
「なるほど。月が替わると、そちらの額縁からこちらへとカレンダーを移すのですね。ふむ。これはいい。」
ホームズは、楽しそうに額縁から数枚のカレンダーを引き抜いて、私に寄越した。
カレンダー自体は、封筒の大きさに似たひと月1枚のカードになっていた。たっぷりと予定を書き込むことが出来るように、日付自体は小さく印刷されていたが、カレンダーもまた、手帳と同じように二色のインクを使って、小さな文字でびっしりと予定やメモが書き込まれていたため、一見すると余白が非常に少なく見えた。
私はカレンダーを額縁に戻しながら、教授にうなづきかけた。
「非常にいい手法ですね。額縁のガラスを抜くというアイディアもすばらしいです。それに、額縁が黒いのは西日の反射を抑えるためですね?」
教授は少しうれしそうに頷いた。
「あら、良くお分かりね。そうなんです。この位置が一番いいんですけれど、ここだと夕日が当たるので、黒くしておかないと眩しいんですよ。」
私は、どんなもんだいという風にホームズを見やったが、名探偵は小馬鹿にしたような顔をして、片方の眉だけぴくりと上げた。私は少々傷ついた。
大きなカレンダーは、応接セットからは死角になっている本棚の間に貼られていた。こちらはベーカー街の事務所にも貼ってある見慣れたものだった。
明日の日付には大きな印と時間が書き込まれていた。ホームズは教授に尋ねた。
「明日は何かあるのですか?」
「ええ、私の所有している化石や鉱石のうち、特に貴重な物を大英博物館の展示会用に搬出する日ですわ。」
教授はデスクに戻り、額縁と眼鏡を手に戻ってきた。
「今度の展示会には、私のコレクションから供出するものが多いので、紛失を避けるために2回に分けて搬出するんです。第一陣は明日の朝、警察官立会いでロンドンまで運んでくれるよう、館長が手配してくださいましたの。」
私は、1階の小部屋に山と詰まれた木箱を思い出した。なるほど、あの重そうな木箱の中では、太古の生物たちが永遠の眠りを貪っていたのだ。
「館長とは親しいのですか?」
「ええ、若い頃に師事していましたからもう数十年のお付き合いになりますわ。最近はこの土地にも博物館を建設する計画があるので、月に一度はお立ち寄りになります。」
ホームズは、カレンダーを捲り、先月、先々月の様子をざっと眺め、満足したように頷いた。
「ありがとうございました。とても捜査の参考になりましたよ。」
「お役にたてて光栄ですわ。ホームズさん。」
教授はにこにこと笑った。そして手にしていたカレンダー入りの額縁を、ホームズに渡した。彼女は心なしか頬を赤らめた。
「ホームズさん。記念と言っては何ですが、今日の日付にサインをいただけますか?」
「いいですとも!さぁワトソン君も一緒に」
ホームズが即答したものだから、私は非常に驚いた。彼が気安くサインをする姿など、見たことが無い上、自分の痕跡をあえて残すような「まっとうな」自己顕示欲など、持ち合わせていたとは思わなかったのだ。
彼は教授がいつも使っているペンを借りると、本日の日付の下に、すらすらとサインをし、ペンとカレンダーを私に寄越した。彼の奔放なサインの下に私もサインをし、全体を眺めてみると、やはり、我々のサインだけが異質な感じがした。
ホームズは、私からカレンダーとペンを取り上げると、教授に返しながらこういった。
「ありがとうございました。…ああ、最近無くした眼鏡と手帳は、かならずすぐに見つかりますよ。」
私と教授はぽかんとした。眼鏡を無くした事など、教授は何一つ言わなかったのに、どこでホームズはそれに気が付いたのだろう。それに彼女は右手に眼鏡を持っているではないか。
「どうして…」
教授が言いかけると、ホームズはそれをさえぎるように、快活に言った。
「では、これで。近いうちにまた訪問します。さあ、ワトソン、行こう。」
(つづく)
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中央のテーブルを取り囲むように配置された本棚は、緩やかな傾斜を描きながら吹き抜けの天井に達していた。その天井の大きなステンドグラスを通して降り注ぐ光に、大小色とりどりの装丁と、背表紙の金文字がきらめくさまは、噂に聞く大瀑布さながらの景観だった。
教授は我々をその一角に呼び寄せた。そこは他とは違って、比較的小型の本と、紙製の筒がぎっしりと詰め込まれていた。近寄ってみると、小型の本と見えたのは、さまざまな背表紙の手帳類であり、紙筒には丸められたカレンダーが納められているようだった。
教授は艶然と微笑みながら、腰の高さの一段を示した。
「このあたりが、W&F商会のオリジナル商品です。創業当時のものから全て揃っていますよ。」
ホームズは礼を言うと、比較的新しそうな一角から手をつけた。私も真似て一冊抜き出すと、ぱらぱらと手帳を捲った。私は驚いた。手帳にはびっしりと、スケジュールや日誌のようなメモが書き込まれていたのだ。
「全ての手帳をお使いなんですか?」
教授はからからと笑った。
「W&F商会の手帳だけですよ。使っているのは。もちろん、未開封のものは別にとり置いていますけれどね。そちらがよければ…」
「いえいえ上等ですよ。むしろお使いのほうがいい。」
ホームズが割り込んだ。
「この手の手帳を私たちは使ったことがありませんから、どんな使い方をするのかに興味があります。…もちろん今年の手帳は未だ『殿堂』入りしていませんね。」
ホームズのこの一言で、教授は悲しそうに微笑んだ。
「残念ですが、あの子が『殿堂』入りすることは無いかもしれません。」
「どうしたのですか?」
教授はため息をついた。
「無くしてしまったのです。普段は家の中でも片時もはなさず持ち歩くのですが、考古学展への出展と学会の準備、屋根の修理、そのほかの雑事がここ最近重なってしまって、どこに置いたのか、ちっとも思い出せないのです。」
ホームズは、開いていた一昨年の手帳を閉じながら、同情を示した。
「それはお困りでしょうね。これらの手帳には、それは細かくさまざまな予定やメモが記されていますし、これを失うなんて…」
「ありがとうございます。ホームズさん。幸いにも予定は大丈夫ですの。家のそこここにカレンダーを貼っていますから、来客や大きな予定はそれらにも均等に記しています。それに、万が一の事を考えて、全ての予定は卓上のカレンダーにも書き込んであるのです。」
手帳は少々の変化はあるものの、毎年ほぼ同じ「1週間が縦型」のもので、教授はそこに、小さな文字でびっしりと予定やメモを記していた。教授にとっては、手帳は単なる予定を記す帳面ではなく、日記帳の役割も兼ねている様子だった。使い込まれた様子のカバーは、黒い馬革、ダチョウの皮、東洋の布地など、毎年異なった上品な素材で出来ており、表紙の肩には小さく家紋があしらわれていた。
私はふと教授に聞いてみたくなった。
「教授はカレンダーにどうしても思い出せない印が付いていたご経験はありませんか?」
教授はにっこりと笑った。
「ありますよ。もちろん。そんなときは手帳か、卓上のカレンダーに聞いてみます。ちゃんと何の予定か書いてありますから、約束を取り違えたりすることはありません。」
手帳を棚に戻し、なにやら考えていたホームズが話に割り込んできた。
「今お使いの小さなカレンダーを見せてもらえますか?」
「ええ、いいですとも。先ほどの部屋に大小のカレンダーがありますから、戻りましょう。」
我々は2階の部屋に戻り、招かれるままに教授の机に近寄った。広い机の両脇には、きちんと書類が積まれており、カレンダーは、右手奥の机の縁に、ガラスを抜いた黒い小さな額縁に入れて立てかけられていた。このカレンダーにも、手帳ほどでは無いにせよ、毎日の来客や簡単なメモなどが、結構な密度で記されていた。
「ほう。ふた月分を並べて置いてあるんですね。」
今月のカレンダーを手に取りながら、ホームズが尋ねた。
「ええ、こうすると、論文の締め切りまであと何日あるのか解りやすいのです。それに、翌月の予定を書き込むときに、いちいち抜き差ししないで済みますし。」
「なるほど。月が替わると、そちらの額縁からこちらへとカレンダーを移すのですね。ふむ。これはいい。」
ホームズは、楽しそうに額縁から数枚のカレンダーを引き抜いて、私に寄越した。
カレンダー自体は、封筒の大きさに似たひと月1枚のカードになっていた。たっぷりと予定を書き込むことが出来るように、日付自体は小さく印刷されていたが、カレンダーもまた、手帳と同じように二色のインクを使って、小さな文字でびっしりと予定やメモが書き込まれていたため、一見すると余白が非常に少なく見えた。
私はカレンダーを額縁に戻しながら、教授にうなづきかけた。
「非常にいい手法ですね。額縁のガラスを抜くというアイディアもすばらしいです。それに、額縁が黒いのは西日の反射を抑えるためですね?」
教授は少しうれしそうに頷いた。
「あら、良くお分かりね。そうなんです。この位置が一番いいんですけれど、ここだと夕日が当たるので、黒くしておかないと眩しいんですよ。」
私は、どんなもんだいという風にホームズを見やったが、名探偵は小馬鹿にしたような顔をして、片方の眉だけぴくりと上げた。私は少々傷ついた。
大きなカレンダーは、応接セットからは死角になっている本棚の間に貼られていた。こちらはベーカー街の事務所にも貼ってある見慣れたものだった。
明日の日付には大きな印と時間が書き込まれていた。ホームズは教授に尋ねた。
「明日は何かあるのですか?」
「ええ、私の所有している化石や鉱石のうち、特に貴重な物を大英博物館の展示会用に搬出する日ですわ。」
教授はデスクに戻り、額縁と眼鏡を手に戻ってきた。
「今度の展示会には、私のコレクションから供出するものが多いので、紛失を避けるために2回に分けて搬出するんです。第一陣は明日の朝、警察官立会いでロンドンまで運んでくれるよう、館長が手配してくださいましたの。」
私は、1階の小部屋に山と詰まれた木箱を思い出した。なるほど、あの重そうな木箱の中では、太古の生物たちが永遠の眠りを貪っていたのだ。
「館長とは親しいのですか?」
「ええ、若い頃に師事していましたからもう数十年のお付き合いになりますわ。最近はこの土地にも博物館を建設する計画があるので、月に一度はお立ち寄りになります。」
ホームズは、カレンダーを捲り、先月、先々月の様子をざっと眺め、満足したように頷いた。
「ありがとうございました。とても捜査の参考になりましたよ。」
「お役にたてて光栄ですわ。ホームズさん。」
教授はにこにこと笑った。そして手にしていたカレンダー入りの額縁を、ホームズに渡した。彼女は心なしか頬を赤らめた。
「ホームズさん。記念と言っては何ですが、今日の日付にサインをいただけますか?」
「いいですとも!さぁワトソン君も一緒に」
ホームズが即答したものだから、私は非常に驚いた。彼が気安くサインをする姿など、見たことが無い上、自分の痕跡をあえて残すような「まっとうな」自己顕示欲など、持ち合わせていたとは思わなかったのだ。
彼は教授がいつも使っているペンを借りると、本日の日付の下に、すらすらとサインをし、ペンとカレンダーを私に寄越した。彼の奔放なサインの下に私もサインをし、全体を眺めてみると、やはり、我々のサインだけが異質な感じがした。
ホームズは、私からカレンダーとペンを取り上げると、教授に返しながらこういった。
「ありがとうございました。…ああ、最近無くした眼鏡と手帳は、かならずすぐに見つかりますよ。」
私と教授はぽかんとした。眼鏡を無くした事など、教授は何一つ言わなかったのに、どこでホームズはそれに気が付いたのだろう。それに彼女は右手に眼鏡を持っているではないか。
「どうして…」
教授が言いかけると、ホームズはそれをさえぎるように、快活に言った。
「では、これで。近いうちにまた訪問します。さあ、ワトソン、行こう。」
(つづく)
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