[1]-[2]-[3]-[4]-[5]-[6]-[最終回]
教授の屋敷を出ると、丁度太陽が中天にさしかかる頃だった。ホームズは振り返り、屋敷の二階に並んでいる窓を見ていたが、そのうちこらえきれないように吹き出した。
「ホームズ、どうしたんだい?」
「…いや。さぞや大変だったろうなと思ってさ。」
私は、彼の不誠実さに怒りを覚えた。親切な教授が眼鏡や手帳を無くした事を、何も笑うことは無いのではないか?。私が問い詰めようとすると、彼はひらりと身を返し、来た時同様、大またで建物の裏手に向かって歩き出した。
私はあわてて彼の後を追った。

「ホームズ、いったい君は…」
「ワトソン君、君は本当に解らないのかい?。もしかして両方とも?」
ホームズは歩きながら、じれったそうに問いかけた。私は自分がとても馬鹿者になった気分になった。ホームズの言った意味が、全く理解出来なかったのだ。仕方なく、小声で問いかけた。
「両方って何だい?」
教授の屋敷を出ると、丁度太陽が中天にさしかかる頃だった。ホームズは振り返り、屋敷の二階に並んでいる窓を見ていたが、そのうちこらえきれないように吹き出した。
「ホームズ、どうしたんだい?」
「…いや。さぞや大変だったろうなと思ってさ。」
私は、彼の不誠実さに怒りを覚えた。親切な教授が眼鏡や手帳を無くした事を、何も笑うことは無いのではないか?。私が問い詰めようとすると、彼はひらりと身を返し、来た時同様、大またで建物の裏手に向かって歩き出した。
私はあわてて彼の後を追った。

「ホームズ、いったい君は…」
「ワトソン君、君は本当に解らないのかい?。もしかして両方とも?」
ホームズは歩きながら、じれったそうに問いかけた。私は自分がとても馬鹿者になった気分になった。ホームズの言った意味が、全く理解出来なかったのだ。仕方なく、小声で問いかけた。
「両方って何だい?」
ホームズは無言のまま、歩調を緩めようともせず、すばらしい角度で植え込みの角を曲がり、ティポーの小屋の前に立った。小屋の側に、朝には無かった荷馬車が停まっていた。彼は無遠慮に荷馬車に詰まれた木材をぱしぱしと叩きながら、早口の小声こう言った。
「あのねえワトソン君、今日は朝から君と僕は全く同じものを見ているんだよ。僕が見たものは全て君に渡したし、君が先に見つけたものだってあるんだ。全ての事を思い出して論理的に考えるんだ。君はセンチメンタルに物事を考えすぎるが、今必要なのは、小説家のセンチメンタリズムじゃない。観察結果を論理的に組み立てる思考なんだよ。」
私は先生に叱られた生徒のようにしょげかえった。そんな私を見て、ホームズはため息をつくと、荷馬車から離れ、ティポーの小屋に歩み寄った。
「今からしばらく、何を聞いても驚かないでくれたまえ。いいね。」
そう言うなり、彼はドアをノックした。
返事があり、巨漢ティポーがドアを開けた。
「ああ、ホームズさん。」
「やあ、来客中かい?」
ホームズは聞くなり小屋を覗き込んだ。気のいい巨漢は、ホームズが見やすいようにわきにどくと、小屋の中で図面を広げたテーブルを囲んだ数人の男達を示した。
「屋根職人達ですよ。今日で作業が終わったので、修繕箇所の説明を受けていたんです。」
遠慮がちに小屋を覗くと、中はこざっぱりとしており、奥の間に通じるドアには、W&F商会のカレンダーが貼ってあるのが見てとれた。そんな私の様子を横目で見ながら、ホームズは元気良く切り出した。
「しばらく海外に行くつもりなんだけど、土産は何がいいかな。」
ティポーは目を丸くした。
「お土産ですか?どちらに?いつ発たれるんですか?」
「ああ、今日の夕方、ボストンから船に乗って、北欧からロシアまで旅行する予定なんだ。半年ぐらいは戻ってこないんで、教授に挨拶に来たんだよ。」
ティポーはうらやましそうな顔でホームズに握手を求めた。
「ホームズさんが無事に戻って来られることが何よりです。先生へのお心遣いもありがとうございます。お帰りの際は、是非ともご連絡ください。先生と港にお迎えに上がりますから。」
悪びれもせず、ホームズは手を握り返した。
「君もしっかりと教授を守るんだぜ。ああ、馬車を待たせてあるんで、これで失礼するよ。じゃあまた。」
屋敷の門を出ると、丁度良いタイミングで迎えの馬車が待っていた。馬車に乗り込むと、ホームズは帽子を取り、申し訳なさそうに言った。
「ワトソン君、もし君が、北欧旅行を楽しみにしているんだったら心から謝るよ。」
それを聞いて、私は吹き出した。
「ホームズ、あれが嘘だっていくら僕でもわかるさ。北欧航路は火曜日と金曜日にしか出航しない。今日は月曜日。さっきから散々カレンダーを見ていたじゃないか。」
ホームズはううむと唸った。
「しまった。それは周知の事実かい?」
「いや、違うと思う。ハドソンさんの甥が旅行するということで、昨日調べてあげたんだよ。今月に入ってから、ボストン港の運行予定ががらりと変わったらしいんだ。」
名探偵はため息をついた。
「そうかい。僕としたことが…。悪かったよ、ワトソン君。いくら論理的な思考を行っても、入手した素材自体が間違っていれば、全く意味をなさないね。」
それだけ言うと、ホームズは窓の外をじっと見つめた。私は少しだけ気分が楽になった。
列車でロンドンに戻ると、ホームズは「スコットランドヤードに寄る」と言い残して人ごみに消えた。私は午後のおだやかな日差しを浴びながら、ぶらぶらとベーカー街に向かった。
何もかもが全く謎のままだった。あと3ヶ月しか使えないカレンダーをしこたま買い込んだ男、教授のコレクション、紛失した眼鏡と手帳、北欧旅行の嘘…それから…。断片的に浮かんでは消えるキーワードを論理的に繋げようとしても、何一つとして形にならなかった。
ぼんやりとしているうちに、ベーカー街の我が家に到着してしまった。階段を上がり、ドアをあけ、私は深いため息をついた。そうだ、身近にして最大の謎、このカレンダーの印の謎さえ、全く解けていないではないか。
夜遅くに、ホームズから電報が届いた。電報には「明日の夕刊を楽しみにしていたまえ。 S.H」とだけ記されてあった。どうやら彼は、私をおいてけぼりにして、このまま事件の核心に迫るつもりらしかった。
ホームズは翌朝になっても戻って来なかった。
彼の身に何かあったのかとやきもきしているうちに、ベーカー街は夕闇につつまれてしまった。落ち着き無く部屋を歩き回っていると、夕刊とホームズから届いた円筒形の荷物、それにメッセージカードを持って、ハドソン婦人が階下から上がってきた。気が急いていた私は、飛びつくように荷物を受け取り、先ずは二つ折りのメッセージカードを開いた。するとそこには一言、「観察せよ」とだけ記されていた。
次に、円筒形の荷物を開封してみると、そこにはW&F商会の大型カレンダーがふたつ入っていた。わが友は、これを観察せよと言いたいらしい。私は、テーブルに二つのカレンダーを並べて、腕組みをした。
「すまないワトソン。はじめは君も呼びよせるつもりだったのだけど…」
翌日の午後、いつもの椅子にだらしなく腰掛けたホームズは、申し訳なさそうな台詞とはうらはらに、快活な口調で話しだした。私は劇的な終幕に立ち会えなかった鬱憤を、どう晴らそうかと彼の前に仁王立ちになっていた。
「ひどいよホームズ。こんなことだと知っていたら、駅で別れずに一緒に行ったのに。」
私は昨日の夕刊を乱暴に広げた。そこには大きな活字で"国際美術窃盗団 一網打尽!!"というセンセーショナルな見出しとともに、ロンドン近郊に居を構えた窃盗団の現行犯逮捕を記した記事と、得意気なレストレード警部の談話が掲載されていた。
「実際、ここに君が居てくれたら助かったのにと、切実に感じた局面もあったんだ。かわいそうな犯人は、君が居なかったせいで、これから辛い人生を送る羽目になってしまったしね。」
そんな慰めでは、このむしゃくしゃした気分は収まらなかった。私は向かいの椅子にどっかりと座り、指をぽきぽきと鳴らした。
「話してくれたまえ、はじめから!!」
(つづく)
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「あのねえワトソン君、今日は朝から君と僕は全く同じものを見ているんだよ。僕が見たものは全て君に渡したし、君が先に見つけたものだってあるんだ。全ての事を思い出して論理的に考えるんだ。君はセンチメンタルに物事を考えすぎるが、今必要なのは、小説家のセンチメンタリズムじゃない。観察結果を論理的に組み立てる思考なんだよ。」
私は先生に叱られた生徒のようにしょげかえった。そんな私を見て、ホームズはため息をつくと、荷馬車から離れ、ティポーの小屋に歩み寄った。
「今からしばらく、何を聞いても驚かないでくれたまえ。いいね。」
そう言うなり、彼はドアをノックした。
返事があり、巨漢ティポーがドアを開けた。
「ああ、ホームズさん。」
「やあ、来客中かい?」
ホームズは聞くなり小屋を覗き込んだ。気のいい巨漢は、ホームズが見やすいようにわきにどくと、小屋の中で図面を広げたテーブルを囲んだ数人の男達を示した。
「屋根職人達ですよ。今日で作業が終わったので、修繕箇所の説明を受けていたんです。」
遠慮がちに小屋を覗くと、中はこざっぱりとしており、奥の間に通じるドアには、W&F商会のカレンダーが貼ってあるのが見てとれた。そんな私の様子を横目で見ながら、ホームズは元気良く切り出した。
「しばらく海外に行くつもりなんだけど、土産は何がいいかな。」
ティポーは目を丸くした。
「お土産ですか?どちらに?いつ発たれるんですか?」
「ああ、今日の夕方、ボストンから船に乗って、北欧からロシアまで旅行する予定なんだ。半年ぐらいは戻ってこないんで、教授に挨拶に来たんだよ。」
ティポーはうらやましそうな顔でホームズに握手を求めた。
「ホームズさんが無事に戻って来られることが何よりです。先生へのお心遣いもありがとうございます。お帰りの際は、是非ともご連絡ください。先生と港にお迎えに上がりますから。」
悪びれもせず、ホームズは手を握り返した。
「君もしっかりと教授を守るんだぜ。ああ、馬車を待たせてあるんで、これで失礼するよ。じゃあまた。」
屋敷の門を出ると、丁度良いタイミングで迎えの馬車が待っていた。馬車に乗り込むと、ホームズは帽子を取り、申し訳なさそうに言った。
「ワトソン君、もし君が、北欧旅行を楽しみにしているんだったら心から謝るよ。」
それを聞いて、私は吹き出した。
「ホームズ、あれが嘘だっていくら僕でもわかるさ。北欧航路は火曜日と金曜日にしか出航しない。今日は月曜日。さっきから散々カレンダーを見ていたじゃないか。」
ホームズはううむと唸った。
「しまった。それは周知の事実かい?」
「いや、違うと思う。ハドソンさんの甥が旅行するということで、昨日調べてあげたんだよ。今月に入ってから、ボストン港の運行予定ががらりと変わったらしいんだ。」
名探偵はため息をついた。
「そうかい。僕としたことが…。悪かったよ、ワトソン君。いくら論理的な思考を行っても、入手した素材自体が間違っていれば、全く意味をなさないね。」
それだけ言うと、ホームズは窓の外をじっと見つめた。私は少しだけ気分が楽になった。
列車でロンドンに戻ると、ホームズは「スコットランドヤードに寄る」と言い残して人ごみに消えた。私は午後のおだやかな日差しを浴びながら、ぶらぶらとベーカー街に向かった。
何もかもが全く謎のままだった。あと3ヶ月しか使えないカレンダーをしこたま買い込んだ男、教授のコレクション、紛失した眼鏡と手帳、北欧旅行の嘘…それから…。断片的に浮かんでは消えるキーワードを論理的に繋げようとしても、何一つとして形にならなかった。
ぼんやりとしているうちに、ベーカー街の我が家に到着してしまった。階段を上がり、ドアをあけ、私は深いため息をついた。そうだ、身近にして最大の謎、このカレンダーの印の謎さえ、全く解けていないではないか。
夜遅くに、ホームズから電報が届いた。電報には「明日の夕刊を楽しみにしていたまえ。 S.H」とだけ記されてあった。どうやら彼は、私をおいてけぼりにして、このまま事件の核心に迫るつもりらしかった。
ホームズは翌朝になっても戻って来なかった。
彼の身に何かあったのかとやきもきしているうちに、ベーカー街は夕闇につつまれてしまった。落ち着き無く部屋を歩き回っていると、夕刊とホームズから届いた円筒形の荷物、それにメッセージカードを持って、ハドソン婦人が階下から上がってきた。気が急いていた私は、飛びつくように荷物を受け取り、先ずは二つ折りのメッセージカードを開いた。するとそこには一言、「観察せよ」とだけ記されていた。
次に、円筒形の荷物を開封してみると、そこにはW&F商会の大型カレンダーがふたつ入っていた。わが友は、これを観察せよと言いたいらしい。私は、テーブルに二つのカレンダーを並べて、腕組みをした。
「すまないワトソン。はじめは君も呼びよせるつもりだったのだけど…」
翌日の午後、いつもの椅子にだらしなく腰掛けたホームズは、申し訳なさそうな台詞とはうらはらに、快活な口調で話しだした。私は劇的な終幕に立ち会えなかった鬱憤を、どう晴らそうかと彼の前に仁王立ちになっていた。
「ひどいよホームズ。こんなことだと知っていたら、駅で別れずに一緒に行ったのに。」
私は昨日の夕刊を乱暴に広げた。そこには大きな活字で"国際美術窃盗団 一網打尽!!"というセンセーショナルな見出しとともに、ロンドン近郊に居を構えた窃盗団の現行犯逮捕を記した記事と、得意気なレストレード警部の談話が掲載されていた。
「実際、ここに君が居てくれたら助かったのにと、切実に感じた局面もあったんだ。かわいそうな犯人は、君が居なかったせいで、これから辛い人生を送る羽目になってしまったしね。」
そんな慰めでは、このむしゃくしゃした気分は収まらなかった。私は向かいの椅子にどっかりと座り、指をぽきぽきと鳴らした。
「話してくれたまえ、はじめから!!」
(つづく)
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